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その日の授業は午前中で終わり、後は帰宅するだけとなった。こうなると何のために学校に来たのか怪しくもなるが、ここは割り切るしかないのだろう。基本受け入れ型の月兎としては日常茶飯事のようなものだ。
さて、午後の予定は特にないことだし、一度家に帰るかそのまま便利屋に直行しようかと思案していた月兎を、
「ツキト」
聞きなれた、それでいて何度聞いても変わることのない平坦な口調で呼ぶ声が聞こえた。
「――ああ、夢未か」
振り返らずとも誰だかはわかる。月兎は振り向きざまにその人物の名を呼ぶ。遅れて視界に入ってきたのは、案の定の小柄な体躯。続いて特徴的なツインテールが目に付くが、彼女を印象づけているのはそこではないだろう。何よりも彼女の魅力を引き立てているのは、その無表情だが見る者をひきつけてしまう澄んだ瞳。全てを見透かしているような、それでいて冷たくはない、天然ダイヤのような輝きを放っている眼光は、鋭くも美しい。童顔なわりにそれらしい雰囲気がないのは、そこに起因するだろう。
夢未の登場により、束縛から晴れて自由の身となって騒々しかった教室中の生徒たちの会話がいったん止んだ。夕立が突然止んだかのような静まりようである。慣れたはずの月兎ですら一瞬息を呑んでしまう。クラスにとって文字通り異物である夢未の介入によって雲行きが怪しくなるかと思われたが、静寂はやがて何事もなかったかのように再びの喧騒に包まれた。クラスの連中も、波風夢未という異分子に進んで関わろうとはしない。夢未自身が頼んでもいないのに迷惑を押し付けてくるトラブルメーカーではないことを知っているからだ。月兎のクラスではすでにそういう扱いになっているのか、部外者であるはずの夢未が堂々と教室に入ってきても見咎める者はいない。そうではない。注意を払おうとすらしていないのだ。あえて触れようとしないような空気が流れているのに、月兎はひそかに居心地の悪さを感じていた。
そんな月兎の複雑な心境をよそに、夢未は教室を突っ切って月兎の元まで歩を進めてきた。そして月兎の前に来るとピタリと止まり、
「ツキト、行こう」
ひどく簡略化された同意の言葉を求めた。
「……どこにだ?」
当然のように小首を傾げる月兎。普通ならば帰宅するのだろうが、『帰ろう』ではなく『行こう』といったところが何かしらの意味を含んでいなくもない。ただ単に夢未の説明不足のような気がしなくもないが。
「もう忘れたの、ツキト」
自分が意図したことを理解してもらえなかったことがよほどご不満なのか、夢未は口を結び険しい表情で月兎を非難してくる。そういう顔だと、彼女にもちゃんと感情があるんだということが再認識できる。誰にでもそういう顔ができるのかという話になってくると、難しいものがあるが。
「……何でしたっけ?」
そんな夢未に苦笑しつつも、月兎はわざとらしい笑みで言葉を濁す。それが夢未にショックを与えた。怒りか呆れかその両方か、夢未の顔が見る見るうちに赤くなってきた。夢未のこういう表情は中々拝めるものではない。一つお祈りでもしてみようか。
しまいには消え入りそうな声で『……約束』と言うだけになった。
ここまでくるとさすがに夢未が可哀想だ。全ての非は月兎にある。少々いたずらが過ぎたようだ。
「不足している日用品を買いにいく約束だろ」
――約束。それはある意味魔法の言葉だ。
「……覚えていたの?」
あれほど暗く陰っていた夢未の顔に無機質な明るさを取り戻してくれる、一種の魔法なのだ。
「お前との約束だもんな。忘れようにも忘れられない」
昨日のことだ。とある事情により泉野家に居候することになった夢未は、居候するのに必要最低限の物は元いたアパートから移してきたものの、それで全てがそろっているわけではなかった。夢未が転がり込んでくる前は男の一人暮らしだったのである。新たに女の子が住む以上、必要なものはいろいろと増えてくる。それを解決する意味でも、夢未は月兎に買い物の助勢を要求した。早い話、買い物に付き合えということである。
わざわざ学校帰りに行く必要はないと思うが、夢未も月兎との買い物を楽しみにしていたのだろう。授業が終わってすぐに月兎を迎えに来たことからもそれが窺える。こういうところで夢未の少女らしさを見られるのは月兎としても嬉しい限りだ。断る道理はどこにもない。
「じゃ、行くか」
「うん」
今度は月兎にしか見せない朗らかな笑み。年相応な、無邪気に映るその笑顔に月兎は安心感を覚えていた。今は月兎やその仲間たちと限られた人たちにしか見せない表情ではあるが、夢未ならばいずれ克服するだろうと。何より、そのための助力は惜しまないと誓っている。
「おーい。月兎はいるかー」
そんな和やかな空気に突如飛び込んできたのは、いい予感はあまりしない友人の声だ。その声の主は逃走体勢に入ろうとした月兎を眼中に収めると、早足で近づいてきた。
「ちょうどいい所に。ちょっと手伝ってほしいことがあるんだが……」
そこで声の主はしゃべるのを止めた。月兎のそばでたたずんでいた少女に視線がいくと、ばつが悪そうな顔をして言った。
「……これは悪かった。これから彼女と街へ繰り出すとこだったか」
「違う!」
当たっているような、はずれているような。聞く人によっては誤解を招きそうな発言にたまらず反抗する月兎。こいつはこいつで素で言っているのか策略か、顔に一切出ないのが怖い。
「違うのか? 最近月兎は波風と仲がいいようだから、そう思っていたのだがな。俺の勘違いか」
無表情で疾風を観察する夢未を横目で見ながら、疾風はさらりと答えた。本人は本気にしているのかどうなのか、口調からはその色が見えない。疾風は夢未にも似てポーカーフェイスらしい。それに疾風は他のクラスメイトと違い、夢未をないがしろにしない。その点ではありがたい友人である。
「月兎は意外と交友関係が広いからな。俺の知らないところで誰とどうなっていようと驚かないが……。そういえば、波風。俺は一方的にお前のことを知ってはいるが、自己紹介はまだだったような気がするな。俺のことは知っているか?」
急に話を振られた夢未は臆することなく、そして素っ気無く『知ってる。一年五組クラス委員六連疾風』と答えた。対する疾風は『そうか。知ってるならいいか』と返す。
わりと普通に会話している二人を見てどこか不思議に思う月兎。誰にでも堂々と話す夢未はいいとして、疾風も正面から夢未と向かい合っている。疾風には一度、夢未には関わらないよう忠告されたはずだが。
「しかし、月兎の手があいていないとすると困ったな」
夢未と社交辞令な会話を終えると、疾風は腕を組んでさも困った風なポーズをとった。
「…………そうやってお前は、何かと俺に押し付けるよな」
こないだもそうだったが、疾風はよく月兎に頼み事をしてくる。それが自分の仕事であっても関わらず、だ。嫌がらせがしたいようにしか思えない。
「頼まれても断らない、お前の性格を知っているからさ」
なおさらたちが悪い。
「それで、何がどうしたんだ?」
それでも便利屋としての性分からか聞いてしまう月兎。損な性分である。
「まあ、大したことじゃないんだがな。授業の課題を職員室に持っていくのを手伝ってほしくてな。何分量が多くて、一人で運ぶのには辛そうだと思ったんだ」
「それくらいなら問題ないんじゃないか。時間もそんなにかかりそうのないし」
「それでも、二人の時間を無駄に消費するのは気が引けるな」
「だーかーらーそういう言い方するな! 絶対わざとだろ、それ!」
もはやからかって楽しんでいるようにしか聞こえない。
「まあ、そう声を荒げて否定するな。冗談で言っているのに、本気にするじゃないか」
「お前の冗談は冗談にキコエナイ」
「ははは……」
まじめに対応していても疲れるだけのトークをしていると、教室前方のドアががらがらと音を立てて開いた。さすがに誰も気にしてはいないが、そこから一人の女子生徒が探るような調子で入ってきた。
「あー……良いところに」
疾風が頭をかきながらその女子生徒に目線を送る。月兎もそれにつられて彼女の事を見た。
名前は知っている。彼女の名前は九十九菜江(つくも なえ)。月兎たちと同じ一年五組のクラスメイトであり、疾風と同じクラス委員である。
月兎は彼女のことをよくは知らない。高校から知り合ったので当然といえば当然だが、入学してから同級生として一月近く経つが、会話をしたことも数えるくらいあるかないか。丁寧に切りそろえられたショートボブの髪型に健康的な顔色、校則に準じたスカートの丈の長さに基本的におとなしいため、普通は生真面目に捉えられるのだろうが、彼女の場合は少し違う。
彼女を動物で表現するのならばうさぎがピタリとはまるだろう。いつも何かに怯えているように瞳が震えていて、おどおどして人と接していることも多い。かくいう月兎も初めて彼女の話しかけたとき『ひっ!』と怖がられたものだ。その後彼女に猛烈な謝罪をされたわけだが。
「――九十九、ちょっといいか?」
今も疾風が菜江に話しかけようとすると、『はひっ』という悲鳴じみた声を上げる菜江。
「あー悪い。驚かせちまったか」
「いえっ。わ、わた、わたしが悪いんです! ごめんなさいごめんなさいぃ!」
呆れ顔の疾風にぺこぺこと頭を下げる菜江を見て、『同じなんだな』と感じ取る月兎。
菜江も夢未と同じだ。高校という新しい学び舎での生活に慣れておらず、クラスにも打ち解けていない。二人に違いがあるとするなら、それを気にしているかどうかだろう。
その気にしていないほうの夢未は、いまだに頭を下げ続ける菜江をぼーっと正視していた。
「それで、九十九。授業の課題を一緒に職員室まで――」
「はっ、運ぶんですね。わかりましたっ。わたしが、運んでおきますからっ」
羞恥からか顔を赤くした菜江は、疾風の説明も待たずにその見るからに彼女の筋力では持てそうにない課題の山を抱えると、脱兎の如く教室から逃げてしまった。
「――一人で運ぶのは大変だろうから一緒に……って言おうとしたんだがな」
菜江からスルーされてしまった疾風は再度頭をかいた。初めからやる気がなかったわけではなかろうが、彼女一人に押し付けるのは気分が悪いといった感じの表情だった。
「疾風も上手くいっていないようだな。……夢未、俺たちもそろそろ行くか? ……夢未?」
どこか虚ろな、まるで見えない何かを見ようとしていた夢未に違和感を覚える月兎。魂が身体から抜けているみたいだ。菜江がいなくなった教室の入り口をただ見つめていた夢未は唐突に視線をはずし、
「月兎は校門で待ってて」
そう月兎に告げると、駆け足で教室から出てってしまった。
◇
(どうしてわたしはこうなんだろう……)
九十九菜江は自嘲を混ぜたため息をついた。
(なにも、六連くんにあんな態度をする必要はないのに)
菜江は内気な自分がいやだった。
努力はしようと思ってはいるのだが、人前に出るとどうしてもあがってしまう。自分の言いたいことをありのままに言えない。それで、相手に誤解を与えてしまう。
今日もそうだ。
(あれじゃあ六連くんに嫌われちゃったよね)
彼女がクラス委員に立候補したのもそんな自分の性格を変えるためであり、あの少年と一緒にいたかったからである。彼女としては一世一代の大冒険であったのだが、現実はそう甘くはなかった。彼女は精神の動揺が行動に影響してしまうたちで、彼の前では失敗ばかりだった。これでは、好意をもたれるどころか嫌われ、見放されかねない。自分の行動がことごとく裏目に出ているような錯覚に襲われる。今日もクラス委員の仕事を強引に引き受けたが、それも逆効果ではなかったのかと今にして思ってしまう。
(どうしてわたしはこうなんだろう)
行き場のない無力感が彼女の胸中に冷たい風を吹き起こし、ため息となって外に排出される。
(……だめだ、こんなんじゃ。もっと前向きに生きないと!)
「よっし」
重たい荷物を両腕で抱え、改めてやる気を体内に注入する。悪い方向へとつい考えてしまうのは悪い癖だ。それでは何事も良い方向へは進まない。
「がんばるぞっ」
悩んでいたって答えは出ない。
立ち止まっていても始まらない。
とりあえず今は、前に進むしかない。
そう決意した菜江は軽い足取りで職員室がある一階へとつながる階段へと――
「え」
足を、踏み外した。
山のような課題を抱え持っているせいで、足元に注意が回らなかったからかもしれない。
考え事をしていたせいで、そこが階段であることを失念していたからかもしれない。
どっちにしても、
「――あ」
自分の身が危険にさらされていることを、緩やかに流れている時間の中で感じ取ることだけはできた。
受身は――とれない。両手がふさがっているせいで、傾く重心に体を預けることしかできない。階段とはいえ、打ち所が悪ければ死だってありえる。それくらいのことは菜江にだって考えられる。
考えてしまったら、後は恐怖に身をゆだねるしかない。
「――」
とっさに課題から手を離し助けを求めて手を伸ばすも、その手は何にも届かなくて。
空をつかむ手から血が引いていき、全身の血液が冷たくなっていくのを感じた。
同時に頭の中が妙に空っぽになり、怒涛のようにあらゆる情報と感情がなだれ込んできた。
(わたしは何をしていたのだろう。
――そうだ。教室で六連くんから授業の課題を持っていくという話を聞いて。
わたしは強引にそれを持ってきて。
じゃあ、早くこれを職員室にもっていかなきゃ。
あれ、なんでわたしは課題から手を離して――
地面が、だんだん近づいてきて)
着実に迫っている地面を絶望的な表情で眺め、
――わたしは
どうなる
このまま
堕ちて
死んじゃう
の
「――あ!」
間一髪のところで、誰かに右手をつかまれた。
「っ」
何者かに腕が引っ張られ、走馬灯のように流れていた映像から切り離された。
そしてそのまま階段から引き剥がされ、安全な踊り場へと強制退避させられる。
「んあっ!」
菜江は尻餅をついた痛みから、自分が誰かから間一髪のところで助けられたことを知った。
今のは本当に危なかった。
菜江はドクドクと鳴っている心臓の音を聴きながら、生と死の境界線を間近で体験したことに恐怖を感じていた。あのまま誰にも助けられなかったらと思うとゾッとする。それだけ危険な状況にいたのだ。
(……でも、だれが?)
冷静に考えられるようになってハッとする。
「……きみは――」
菜江は見上げる形で命の恩人の顔を見た。
そこにいたのは、クラスの中でも華奢な体つきの菜江よりも小柄な少女だった。
「…………」
菜江は感謝の言葉も忘れてその少女に見入っていた。
――とくん。
菜江の理解から半歩遅れて聞こえてくる心臓の音は、どこか遠くで鳴っているかのようだった。
眼前の少女も、菜江と同じ場所にいるのに、なぜか別世界にいるかのように存在が神秘的だった。
小学生と見間違える童顔と幼児体型。福御北高の制服を着ていなければ、高校生だと判断できないかもしれない。彼女の場合は、制服を着ていても怪しいのだが。
その幼い容姿から放たれる無機質な眼光。
その無垢なる瞳に菜江は言葉を失った。
少女は一心に菜江を見ていた。
少女の瞳にはぼんやりと菜江の姿が映っている。
でも、少女は菜江ではなく、菜江の深遠をのぞいているかのようだった。
彼女はいったい何を見ているの?
彼女が見ている世界は、どのようなものなのだろう?
それが、菜江が抱いた幼い少女の第一印象だった。
少女が持つ不思議な魅力。
菜江には持ち得ない、今まで感じたことのない不思議な感覚。
酔いにも似たこの視線はいったい何なのだろう。
「大丈夫?」
「……あ、え――うん」
少女は座り込んだままの菜江を心配してか、その小さな手を差し伸べてきた。
菜江は少女の手をとり立ち上がった。自分よりも小さな子に手を引かれるのは変な気分だった。
「怪我がなくて、良かった」
菜江の安否を確認すると、少女はそのまま身を翻した。
「――待って!」
菜江は反射的に少女の背中を呼び止めていた。
「なに?」
上手く思いが伝えられない自分を奮い立て、菜江は意を決し言葉を紡いだ。
「……助けてくれて、ありがとう」
伝えられた。
ちゃんとお礼を口にできた。
「気にしなくていい。当然のことをしたまでだから」
少女の口元がわずかに緩んだ。菜江の感謝を嬉しく思っているのだろう。一見感情がなさそうな少女の微笑を見られて、菜江も嬉しくなった。
「わたしの名前は九十九菜江。きみの名前は?」
自分から自己紹介するなんて、いつ以来だろう。彼女を前にしていると、普段の自分と違って自信が沸いてきた。
無機質な微笑のままの少女は、明瞭な声で菜江に返した。
「波風夢未」
そう言うと少女は、もと来た廊下を歩き出した。
本来の目的も忘れて、菜江はその背中をただただ見つめていた。
……Next 夢未の友達
テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学
- 2009/01/09(金) 16:46:00|
- ミズガルズの救済者SS2
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